| 闘いが終わって私は今・・・・2. |
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父が闘病を続けている間、何とか父を助けたい、どうにかして奇跡が起きないか、少しでも父を楽にしたいなど目に前にいる父のことを考え、父のことを想い、一日でも長くいて欲しいと願っていた。それだけではなく、治らないと言われても父を救う道があるのではないか、健康食品が効果を表すのではないか、気力で何とか治らないのかなど、残された可能性を探していた。一日ごとに変化する父の体調を見て「あ、今日は調子が良さそうだ」と喜び、「昨日はあんなに体調が良かったのに、どうして今日はこんなにしんどそうなのか」とその変化にも対応しきれないこともあった。
今思い出すと、とにかく必死だったのだと思う。 そして今、父がいなくなって気づいたのは、あまりに父の病気に対して必死であったために父がいなくなったときの事を何も考えてこなかったということ。誰もがそんな最悪の事を考えて看病をしていないだろうし、どうにかして助かる道を探すものだと思う。父が人生に終止符を打つその瞬間が来ようともそれは闘病の終わりを意味するもので、「父がいなくなってしまった」その後の事までは心の準備もなければ想像もできなかった。しかし、残されたものには、この辛い事実が待っている。闘病中はどこかに、病と闘っていても父が存在するという逃げ道があるけれど、「大切な人のいない生活」は逃げる事が出来ない。
多分私は、闘病中には辛くなかったかと聞かれると、「辛かった」と答えると思いう。しかしお父さんがいなくなって辛いですかと、聞かれるなら「悲しみから逃げられないから辛い」と答えるだろう。
最近、父の元気な頃の姿が浮かんでくるようになった。少し前までは父が発病をしてからの姿しか出てこなかったのに、何故だろう?急に犬の散歩に父が元気な頃に一緒によく行った公園に行ってみたくなった。少し前は「ここは父と行ったところだから、思い出して辛くなる」と避けていた。なのに、何故だろう? 恭平が元気な頃に好きだった公園に、私とジュディーとさくらだけしかいない。父も恭平も一緒にはいないのに、一緒に散歩をしている光景が目に浮かんでくる。でも前だったら車を止める事もしなかったと思う。不思議と、この日は周りの景色を見ることが出来たし、元気に走っている恭平と後ろを歩いている父の姿が想像できて、悲しみや辛さとは違った感情を持った。しかし、その感情が何かはよく判らない。
ジュディーとさくらはとても嬉しそうに走っている。私と一緒に歩き、距離が離れると走って私の後を追う。いつもと同じ光景だけれど、なんとなく不思議な感覚になった。それは、この公園の景色は何も変わっていないこと。それだけではなく、ジュディーとさくらが公園を走る姿も変わっていない。いかにも嬉しそうに走る姿は、1年前も今も変わっていない。30分ほどその公園にいたけれどその時間が過ぎるスピードも変わっていない。それよりその時間がとてもゆっくり過ぎていくようなさえした。闘病中は何度もこの公園に来たけれど景色を見るより、愛犬の表情を見るより、父の様子が気になっていた。あまり長く散歩をすると疲れないかと、時間を気にしていた。
父が闘病を終えた後も、ジュディーやさくらの表情より、公園の景色より、時間を気にする事より、この空間、この時間に父と恭平がいない事だけに気持ちを奪われていた気がする。
この公園に来たから気がついたのか、もう気がついていたからこの公園に来たのか判らない。でもきっと、私の心の中では少し変化が出てきたのは確かだと思う。今日はあのベンチでもう少し座って、父と恭平と一緒に走ったときの事を思い出してみよう。
私は生まれたときから家に犬がいた。父がシェパードと日本スピッツを飼っていて、写真も残されている。ジョンと太郎という2匹の犬は私の記憶には無いけれど、確かに飼っていた。その後、小学生の時に父がテリアと雑種のミックスの生まれて2ヶ月ほどの子犬を突然家に連れてきた。その時の父の嬉しそうな顔は子供ながらに覚えている。どうして父が嬉しそうだったのかは判らないが、きっと私と弟がとても喜んだからだと思う。母は犬が嫌いであったため、私と弟が面倒を見るという条件で飼うことを母は許した。ありきたりのポチという名前をつけた。学校から帰り真っ先に行くところはポチの所で、近所のお友達と遊ぶときもいつも一緒だったし私になついていた。放し飼いをしても逃げる事も無かったし、いつも私の
兄弟のように私の横にいた。母の言うことは聞かなくても、私が「ポチ!」と呼ぶときちんと私のところへ来る。可愛かったというよりは、頼れる兄貴みたいな存在だった感じがする。その後、小学6年になると同時に引越しをし、中学になったある日知らない叔母さんがマルチーズの子犬を連れて家にやってきた。この人は遠い親戚になるらしく母がこの人の家を訪ねた時に生まれて直ぐのマルチーズがいたらしい。その子を見て可愛いと母が言ったためにこの親戚はうちに連れてきて飼ってほしいと訪ねて来たのだった。もちろん私たちは大賛成。しかし、本来犬の嫌いな母は家の中で犬を飼うなんて絶対に嫌だと反対した。しかしわざわざ連れてきた人を目の前にそう大げさに反対も出来ないし、手のひらサイズのマルチーズを見る
なら心もぐらついたのだろう。小指ほどのシッポを振りまくり愛嬌のいいこのマルチーズは結局我が家の一員となった。すでにナナと名前がついていたのでそのままナナという名前にした。父は大変可愛がり、そして仕事にこのナナを連れて行くほどだった。ナナは父を一番慕うようになり寝るときも一緒に父と寝ていた。ナナは抱っこが出来るほどの大きさだったために皆のアイドルとなったが抱っこするには余りある大きさのポチは、完全に我が家の家族からは除外されてているような感じになってしまった。私は外でぽつんといるポチが可愛そうでならなかった。出来るならなんとか一緒に家の中に連れてきたいとさえ思った。私がポチのところへ行くととても喜び、あふれんばかりの愛情表現で私にまとわり付くしそんな姿を見ると余計に悲しくなる。そんなポチもある日の朝、一人(1匹)で亡くなっ
ていた。悲しくて、可愛そうでたまらなかった記憶がある。そして父と弟が自宅から歩いて直ぐの川にポチを埋めに行くと行ったが、私は行かなかった。しばらくは孤独に死んでいたポチのことを忘れることがなかなかできずに、自分が罪深いことをしたのだろうかとさえ思ったことがある。もっと可愛がっていたら、家の中で一緒にいる事が出来たら、ナナばっかり可愛がる事をしなかったら、などと後悔は後から後から出て来た事も覚えている。そして 私は恭平を可愛がり、ジュディーが恭平の奥さんとなり、さくらが生まれた。父と母はさくらを一番可愛がるのだが、私は恭平を一番可愛がるという自信があった。それはポチの事を経験したからだった。そして、一人ぽっちで誰にも見られることなく亡くなったポチの事を思う時の後悔を経験したためか、できる限りの事を恭平にしたいと思った。ポチが死んだあの時の自分を責める気持ちは二度と経験したくない。父が発病をし、病状を知らされたときも、ポチと同じ思いはしたくなかった。後悔と、懺悔。これはできる限り少ない方がいい。この思いは後々まで尾を引く。かといって犬を人間並みに扱うべきだと言う事が言いたいのではなく、あの時、ああしていたら、今はこうだった、そういう自分の気持ちが重要だと思う。それに「あの時ああして いたら、あの時こうしていれば」といういう経験は誰にでもあると思うし、それが前に向かって目標に進んでいる場合なら、「今度こそは」とバネになることもあるかもしれない。しかし、二度とチャンスの来ないことに対してはどうだろうか?やはり力の限りすることしかないのかもしれない。それに一度失敗をすると、次には同じ失敗を繰り返さないようにと気をつけるようになる。果たして自分は父と恭平が病に倒れた時に、そのポチの経験が活かされたのだろうか? 今、自分は後悔も懺悔もしないほどにできる限りの事をしたのだろうか? 走り回るジュディーとさくら、そして父と恭平の元気な姿と一緒にこの日はこんな事を考えていた。
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ずっとそのままにしていた父の部屋を掃除した。主を失いひっそりとしているがうっすらとホコリが溜まっている。いつかはこの部屋を片付けるのだろうか?それともこのままにしておくのだろうか?そんな事を考えながら掃除をしていた。父は本が好きで本棚には多くの本がある。かなり古いものから、最近のものまである。その中の数冊は、私も父に借りて読んだ。親子2代に渡って読まれた本は今はひっそりと本棚にならんでいる。そして父が座って読んでいた椅子とテーブルを見ると、父が本を読んでいる姿が浮かんできて悲しくなった。一体どうして悲しくて何処から悲しみが来るのか、そしていつなくなるのだろう?
父が闘病を続けている間は、父と色々な感情を共有する事が出来た。父が辛いと私も辛い。父が痛みがあり苦しいと私も心が痛む。頑張っているのに治らないと嘆けば私も悲しい。しかし、父が容態がよいと私も嬉しい。父が機嫌が良いと私も安心できる。しかし、父が闘病を終えた瞬間からは共感していた当の本人である父はいなくなり、悲しみだけが残った。嘆きとでも言うべきだろうか?「どうして死んでしまったの?」と嘆いても反応してくれる父はいないし、空しい響きとなって言葉だけがその場に取り残される。出口のない一方通行の道路にポツリと立っているような感じだ。でも悲しみを分け合う家族や友人はいる。その一方通行の道路を家族と一緒に歩けば孤独からも救われるし、悲しい気持ちや辛い気持ちを理解してもらえるという安らぎも得る事が出来る。しかしたとえ、その家族や友人と一緒に道を歩いたとしても出口が見つからない。根本的に心の中にある悲しみは出口が見つからないから辛いのだろうか?一時的にその悲しみや辛さを忘れる事をできたとしても、その道の先の出口を見つけないと完全に悲しみや辛さをなくすことは出来ないと言うことだろう。
その事に気がついたからには、今は嘆くだけ嘆いて、泣くだけ泣こう。この出口のない道路で止まっているよりはましかもしれない。先に進めば出口は必ずあるはずだ。又、同じように躓いたり、立ち止まったりするかもしれない。振り返ると、ずっと立ち止まって動けない場所もあったし、2歩進んで躓いて動けない事もあった。しかし、確実に前に進んでいる気がする。
ふと一緒に闘病を続けていた間に、父と共感できた事に喜びを感じた。父が亡くなって悲しく辛いのに、この世を去らなくてはならない父は今の私よりもっと辛かったに違いない。その時の父の歩いていた道は私の今歩いている道よりずっと暗く、辛く、悲しく耐え難いものだったと思う。しかし、父と戦っている間、私も父と共に悲しみ、共に喜ぶ事ができたのは父にとっても心強かったに違いない。その父が歩いていた暗く辛い道を一緒に
歩けたことは父を支える事が出来たということだとも思う。きっと父も悲しみや辛さは一方通行であっただろうし、険しい道だったに違いない。今日は、この世を去らなくてはならなかった父の辛さも一緒に連れて前に歩いていこう。出口は見つかるに違いない。
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私はゴルフが好きでずっとプレイをしていた。しかし交通事故で怪我をした事をきっかけにできなくなった。そのゴルフの面白さは一言では表せないが、一番難しいところなら言える。それは自分自信をコントロールする事だと思う。ひどいプレイをした時に精神的に落ち込むと、プレイにも影響をしクラブを投げたくなる。聞いた話だけれど、池の中にバッグごと投げ込んだ人がいてい、「切れ者」とあだ名がついたらしい。又、スコアには誰もがこだわり「あの時にパターが入っていたら、パープレイだった」「あのときのO.Bが無ければ今日は100以下でラウンドできた」など、たらればをやたら連発する人もいる。しかし、ラウンドを終えて計算したスコアが全てを表すから残酷だ。少しでも良いスコアでラウンドを終えたいのは誰もが同じだろう。特に目指すスコアの前後はとても神経が過敏になり「あの時のダブル・ボギーをしなかったら」「あの時にバンカーに入らなかったら」などと悔しがる。もう少し楽観的な人は同じ状況で「あの時のダブル・ボギーは練習が足りないと言うことだな」「あの時に池に入ったから、次は入らないようにしなきゃ」と言う。楽観的と言うより前向きと言うことだろうか? そういう人は必ず一生懸命練習するし、過去の失敗を教訓に上手になろうとする。前者は、何時までもその失敗を覚えていて次にラウンドしたときにも話をしたりする。しかし、過去の失敗にとらわれこの先に練習をして同じ失敗をしないようにという大切な事を忘れがちになる。
父の中学の同級生が数人父に会いに来てくれた。同じ年齢にも関わらず、元気に過ごされている父と一緒に行った旅行の話や、中学の頃の父の話を聞かせてくれた。私の知らない父の姿を垣間見ることが出来て嬉しかった。話に花が咲き、「元気でいてくれたら」という言葉が聞こえた。私も同じように思う。今父が元気でいてくれたらと、想像すると複雑な気分になるのも確かで、悲しみにも襲われる。一体どうして父が癌になりどうして父が死んでしまったのか?そんな考えても答えの出ない疑問をも持ってしまう。茨城の叔父が「運命だ。あきらめろ」と言った言葉が今でも心に残っている。父の運命、それは一体何なのだろう?
父は6歳の時に父を亡くした。長男であった父は下の兄弟の分まで働き、家族を支え父親の代わりをしなくてはと、一心不乱に働いてきたという話をよく聞かされた。病に倒れたとき「6歳から働いてきたんだ。体も痛んでいるはずだ」と漏らした。確か「ゆっくり休めという事だよ」と答えた。ならば、どうしてそんなに頑張ってきた父がこんな目に合うのだろう?やはり運命なのだろうか? 血圧でかかっていた病院では父の訴える症状に「健康そのもの」という診断が下った。もしあの時に病気を発見していたらこんな結果ではなく、今も元気にしていただろうか? もし仕事をしすぎなければ今も父は元気だったのだろうか? 健康診断をきちんと受けていたら癌を早期発見できたのだろうか? そんな「たられば」を発病後は際限なく考えていた。しかし、出来るなら私はゴルフ・プレーヤーの後者の方になりたい。父は癌の発見が遅れたけれど、助からないと言われたけれど、それ以降の人生を力いっぱいプレーした。そう思いたい。 父は、癌と言うゴルフ・コースに出た以上は、池にはまろうが、バンカーにつかまろうが、パターが入らなくても、ダブル・ボギーを叩いても、一生懸命に前を向いてボールを打ち頑張ると言った。私も同じように、父がいない生活というゴルフ・コースに出た。そのコースに出てしまったのだからは「父がいてくれたら」と考えるより、父がいないけれど頑張らなくてはならないと思えるようにしたい。 こうしてこのゴルフ・コースに無理やり連れてこさせられたのを運命と言うのかな????
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リビングの電球が切れた。いつもは父が交換をする。しかし父がいないために、私は近所のホームセンターで電球を買ってきた。電球を探しているうち言いようの無い感覚に襲われた。いつも父と来ていたホームセンターであったし、父はこの店のどこの棚に何が置いてあるのかを記憶していて、自分の欲しい物を見つけることは異様に早い。しかし、欲しい物を見つけた後は、店の中を歩き新しい商品等を見て、時に「棚の位置が変わったな」などと指摘もしていた。私はこの日、一人で出かけたが、電球を一つ見つけるのに時間がかかった。色にも種類があったり、様々なメーカーの物がある。必要な物を見つけるのにも時間がかかった。そうして探して歩いているうちに「父がいてくれたら」等と考えてしまう。それは寂しさを感じたと言うことだけでは なく、父がどんな人だったのか今更だけど少し理解が出来たような感じだった。考えれれば、とても用心深く非常用の物はもちろん、様々な事に対応できるようにと考えて行動をする人であった。私や母は、停電になっても父が用意している非常用の道具が出てくることが当たり前であったため、自分達が用意するなんて疑った事も無い。包丁も研ぐのは父の役目で、いつも切れなくなったな、と思うより前に研いである。基本的に何があっても慌てないように準備を怠らない人だった。本当ならそういった事に感謝しなければいけないのかもしれないが、当たり前の事としか考えていなかったため感謝はもちろん、ありがたいと思うことも無かった。第一、父親がいて当たり前だったから、感謝をする事すら知らなかった。
父は父が6歳の時からいなかった。その分、人一倍頑張る必要があった。しかし、「親父がいるだけ幸せだと思え」と1度だけ言われた記憶がある。ある日、私の友人達と一緒に自宅でお酒を飲んだ時、友人に「自分にはオヤジがいなかったから、オヤジとは何をする人かが判らない。オヤジらしいということが何かも判らない。しかし、判らないながらに、娘には自分なりにオヤジとして出来る事をしてきたつもりだ。どうだ?自分は娘にオヤジらしい事をしてやったと思うか?」と、私の友人に聞いていた。酔っ払いのたわごとと、その時は流したけれど、何故かこの言葉はずっと頭から離れる事は無かった。
正直言って、父が発病をした時に父の事が心配であると同時に、後悔をした。「まだ親孝行もしていない」と。親孝行をする時間も無いのか、そう考えるとどうしていいのか判らなくなってしまったし、いつかは親孝行もするだろうぐらいにしか考えていなかった事にも後悔をした。例えば、花嫁衣裳を見せるとか、孫の顔を見せるとか私は娘らしい事も何もしてこなかった。第一親孝行が何かも判らない。「いつか」という、先延ばしには絶好の言い訳をして親孝行をしようとしなかったのが本当の所なのだと思う。しかし告知を受け、限られた時間と言われ焦る気持ちが先走り、答えが見つからずにオロオロしてしまった。その時父が友人に言ったこの言葉が頭の中に浮かんできた。「判らないながらに自分のできる限りのことをする事」。きっとそれが一番の親孝行に違いない。そう思った。自分自身が父の看病で辛くても、この思いは私を支えてくれたような気がする。少しは娘らしい事を出来ただろうか?と、今度は私が聞いてみたい。
そしてオヤジがいて当たり前だったということに、改めて感謝をしようと思う。 |
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